株式会社新潟クボタ社長ブログ

平成22年の御礼

今年もあとわずかとなりました。厳しい環境の中にあってこうして年末を迎えることが出来ましたのも、多くのお客様始め、関係取引先の皆様の大変なご愛顧、ご支援の賜物であります。あらためて厚く御礼申し上げます。

 さて今年のNHK大河ドラマは「竜馬伝」でありました。そして今は3年がかりのスペシャル大河「坂の上の雲」を放映しています。二つを見比べてみて、あらためて明治の人は本当にえらいものだなーと感じました。竜馬暗殺からわずか37年で、世界の超大国ロシア相手に戦争を始め、今で言えばジョージワシントンのような最新鋭艦を何隻も買い、戦いに勝ってしまうのですから。

 原作者の司馬遼太郎は、明治という時代の空気を「オプティミズム(楽観主義)」と喝破し、ひたすら坂の上にぽっかりと浮かんだ雲のみ見続けるように生き抜いた正岡子規、秋山好古、秋山真之たちをいきいきと描きました。私のブログでも、前回、前々回と早稲田四尊の話を書きましたが、舞台は教育と違いますが、同じように坂の上の雲のみ見続けた群像だともいえるでしょう。

 それに比べ、今の平成の時代をなんと表現したらよいのでしょうか。何か自信をなくし、坂の下の水溜りばかり気にして歩いているような気がします。もう一度、日本人の自信を取り戻して、もう少し前を向いて、もう少し上を向いて歩くような年になればよいと願う次第です。最後になりましたが、皆様良いお年を迎えられますことを、心よりご祈念申し上げ、本年御礼とさせて頂きます。本当にありがとうございました。

早稲田四尊

今回は前回の続編ということでご紹介したいと思います。
下記に各四尊の皆様を少し紹介させていただきます。

大隈重信

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小野梓(1852〜1886)
大隈重信が早稲田創設の父なら、小野梓は学苑創立の母といわれる。大隈の参謀として、立憲改進党を結成する。さらに、東京大学の青年たち高田早苗、天野為之、市島謙吉たちと鴎渡会を結成し、早稲田大学の事実上の校長として切り盛りをする。著書に「国憲汎論」、「民法之骨」などがある。こうした大活躍がたたり、わずか33歳の若さで亡くなり、大隈をして悲嘆にくれさせることとなるのである。
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高田早苗(1860〜1938)
早稲田大学育ての親。小野梓に共鳴し、文部省の職をけり、早稲田の前身である東京専門学校の講師となる。憲法、行政法、外交史から貨幣論、国債論、租税論まで講じた。のちに、法学博士、学監、初代学長、第3大総長を務め、早稲田の基礎を築いた。また、読売新聞主筆、衆議員議員、文部大臣なども歴任。小野亡き後の早稲田の大黒柱として活躍した。
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天野為之(1861〜1938)
大隈と同じ佐賀県(唐津藩)に生まれ、東京大学で高田らと同級。同じように小野梓に共鳴し、東京専門学校の講師となる。経済原論、財政学、経済史を担当。その著、「経済原論」は日本近代経済学の里程標として高く評価される。初代商科の科長、第2代学長を務める。大正6年の「早稲田騒動」で早稲田を辞し、その後東洋経済新報などに活躍の舞台を移す。
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坪内逍遥(1859〜1935)
シェイクスピア研究で有名。当代随一の劇作家、評論家、小説家であり、代表作に「小説神髄」、「当世書生気質」、「桐一葉」などがある。早稲田大学の看板学部である文学部の創設の中核として活躍した。また、雑誌「早稲田文学」にも大きく貢献した。東京大学の同期だった高田に誘われ東京専門学校で教えることとなったが、性格が政治的でなく大隈とはそう親しくなかったといわれる。
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会津八一(1881〜1956)
我が国を代表する歌人、書家、美術史家。雅号は秋艸道人。新潟市に生まれ、中学のころより万葉集や良寛に親しみ、新潟尋常中学校(現新潟高校)
を経て、東京専門学校に進む。1910年に坪内逍遥の招へいで早稲田中学講師となり、のちに早稲田大学教授、同名誉教授。戦後は故郷新潟に在住、1951年に新潟市名誉市民。新潟市に「会津八一記念館」、早稲田大学には「会津八一記念博物館」がある。
詳しくはこちら→http://aizuyaichi.or.jp/
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相馬御風(1883〜1950)
詩人、歌人、評論家。早稲田大学校歌「都の西北」の作詞者として知られる。新潟県糸魚川に生まれ、高田中学(現高田高校)をへて早稲田大学に進む。卒業後「早稲田文学」の編集に参加。1911年早稲田大学講師。しかし1916年に糸魚川に帰ってからは故郷を離れることなく、良寛研究に没頭して大いに成果を上げた。童話や童謡も多く発表。県内の多くの学校の校歌も作詞した。
いくつか挙げると、新潟商業、栃尾高校、村松高校、明訓高校、故郷糸魚川小学校、糸魚川中学校などがある。糸魚川に「相馬御風記念館」がある。
詳しくはこちら→https://www.city.itoigawa.lg.jp/rekimin/index01.htm
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前島密(1835〜1919)
「日本郵便制度の父」。1円切手の肖像で知られる。「郵便」、「切手」、「葉書」という名称は前島が定めた。新潟県上越市の豪農の家に生まれ、江戸に出て、医学、蘭学、英語を学ぶ。明治政府の招へいにより民部省、大蔵省に出仕、1871年に駅逓頭に任ぜられ、日本の郵便制度の基礎を確立した。明治14年の政変で大隈とともに下野し、立憲改進党を創立するとともに、1886年東京専門学校の初代校長に就任した。上越市に「前島記念館」がある。
詳しくはこちら→http://www.city.joetsu.niigata.jp/sisetu/maejima/
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吉田東吾(1864〜1918)
新潟県保田の農民の子として生まれ、農業をしながら独学で全国地誌「大日本地名辞典」を編纂。同郷の市島謙吉の支援で東京専門学校の講師に就任。その後早稲田大学文学部教授、理事などを歴任。新潟県阿賀野市に「吉田東吾記念館」(サイトリンク)がある。
旧制三校(現京都大学)寮歌「琵琶湖周航の歌」の原作の作曲者が、実はこの吉田東吾の二男で、若くして病没した吉田千秋であることが最近発掘され、旧新津市の町おこしに一役買っている。ちなみに私吉田と関係はなさそうである。

ここまで読んでいただいた方には、本当に感謝申し上げるしかありません。ありがとうございます。まだまだ新潟と早稲田にはいろいろ関係があり、早稲田大学のある高田馬場は「越後・高田藩の藩主の母君・高田の君の庭園があった」ところから命名されています。さらに言えば、都の西北を進んでゆくと新潟に行き着くのであります。と、この辺で筆を置きたいと思います。

久しぶりに我が母校へ

今年も残り少なくなりました。年をとってくると月日の流れが早く感じられ、もう1年が経ったか、という気持ちになります。今年も多くの皆様に大変お世話になり、あらためて厚く御礼申し上げます。
さて、今回は全く私のプライベートな話題です。今年は、私の大学卒業35年目に当たり、我が母校「早稲田大学」から、H・C(ホームカミングディー)に招待され、久しぶりに母校のキャンパスを訪れ、同窓生の皆さんと歓談、大変楽しいひと時を過ごしました。その様子をお話しさせて頂きます。

会場は、文学部のキャンパスにある記念会館です。

今回は、早稲田大学校友会125周年の式典も兼ねて開催されました。セレモニーの応援団のエールです。このあたりから、涙腺が緩みかけてきました。

サッカーW杯で大活躍をした我が母校OB岡田監督に特別賞が白井総長から授与されました。拍手!

式典が終わり、会場の外に出ると早速、我がドイツ語クラス8組の面々に遭遇、最終的に10数人の皆さんと時が深更に及ぶまで大いに飲み、食い、語らったのであります。

当日は、稲門祭も同時開催で、すごい人出でした。

我が新潟県支部ののぼりを見つけて記念写真です。

折角だから3時間コースのキャンパスツアーに参加しようということになり、かわいい後輩に案内され、酩酊気味のおじさんたちの珍道中です。

このかわいい後輩に話を聞くと、なんと我がクボタご本社に入社内定とのこと。そのうちわが社を指導に来るときもあるのかもしれません。

そのときに備えてというわけではありませんが、酔っ払い爺さんとツーショットでした。どうも大変ご苦労様でした。
ついでというわけではありませんが、せっかくの機会ですので、過日、北越銀行さんの雑誌に書かせて頂いた「早稲田大学と新潟県」について、少し薀蓄を披露させて頂きます。
話しは、早稲田には「早稲田四尊」があるが、新潟県にも「早稲田・越後四尊」があり、明治時代は早稲田在校生の1割は、新潟県出身者で占められていたほど、早稲田と新潟県は縁が深いというものです。
実は、私、早稲田大学校友会新潟県支部の幹事長を仰せつかっております。昨年、早稲田四尊と越後四尊に同時に登場する「春城市島謙吉氏」の銅像の建立記念式典に参加する栄誉を得たことから、この話しを調べてみたのです。

式典終了後、建立されたばかりの市島氏の銅像を取り囲んで、白井総長始め大学関係者、市島家の皆様、北村支部長始め新潟県校友会の皆さんの記念写真です。
まず「早稲田四尊」からです。「エピソード 稲門の群像」によると、早稲田生みの親である大隈重信侯と小野梓をご本尊と見立て、この二人を取り囲むように、草創期の功労者である高田早苗、天野為之、市島謙吉、坪内逍遥をこう呼ぶとある。今の人は、すぐ浮かんでこない人も多いかと思うので、終わりにそれぞれ解説します。
このいわゆる本家に対し、「越後四尊」は、先の市島謙吉を先頭に、あとは会津八一、相馬御風、前島密とつづく。誰が言い出したか定かではないが、こちらのほうが知っておられる方が多いのではないだろうか。最近では、ここに吉田東吾が話題となります。しかしこの方たちも良く知らない方も居られるかと思うので、この方たちも解説します。
特にこの両方に出てくる「市島謙吉」氏は、新潟の豪農・市島家の分家に生まれ、大隈重信侯を支え、早稲田創立に尽力しました。春城のペンネームで随筆家としても知られ、いろいろな新聞社の主筆で多くの人にその名を知られました。早稲田大学図書館の初代館長を15年の長きにわたり務め、わが国屈指の図書館に育てるとともに、大学拡張の資金集めにも奔走し、経営面に大きく貢献した人物であります。

当社の「2012年採用活動」についての考え方

今日は、わが社の今後の採用活動についての考え方についてお話ししたいと思います それは、我が新潟クボタとしまして、2012年採用予定の学生の皆さんに対する採用活動を、2011年7月1日以降」としたい、ということです。
 先のブログの「内定式」のところでも少し触れましたが、どう考えても今の学生の皆さんの就職活動は早すぎると考えます。3年生の11月ごろから就職活動を始めていては、本当に勉強する時間が限られるはずであります。しかし、それにはわれわれ企業側の採用活動に対する姿勢にも問題があろうかと思います。
 このことを考え始めてから、商社や、経済団体からのいくつかの提言も出ました。たまたまIBMさんの北信越会議に参加する機会を得て、そうしたことについても意見交換を行いました。その結果、もはや、検討している段階ではなく、行動するべき段階であるとの結論に至った次第です。
 詳しくは、ホームページなどに採用担当部門から、説明文を掲載したいと思います。どうか関係各位の皆様にご理解を賜りたいと願う次第です。よろしくお願いします。